تسجيل الدخول会場へ足を入れた壮真は、周りの怪訝そうな顔をよそに、会場前方の舞台に近い辺りに目をやった。華やかな照明に照らされた会場には、財界の名だたる人物たちが集まっている。誰もが和真の当主就任を祝うために訪れているはずだった。それなのに――。壮真が足を踏み入れた瞬間、周囲から向けられる視線には、どこか探るような色があった。壮真自身も、その理由に気づいていた。美玲との離婚。そして、玲子との関係。財界ではすでに噂になっている。それでも壮真は、そんな視線など気にしていないという顔を作り、前方へと視線を向けた。そこには、先日、離婚届をだしたばかりの、元妻の美玲が談笑しているのが見えた。元々、鳳条財閥筋として、このパーティーに美玲が参加することは想定していた壮真も、特に不審には思わなかった―――が、美玲の横に、鮮やかなブルーのドレスを着た、壮真好みの美女が立っているのが見えた。その姿を見た瞬間、壮真の足がわずかに止まった。―――誰だ?華やかな会場の中でも、妙に目を引く女性だった。そして、どこか見覚えがある。「―――どこかで見たことがあるような………」遠くに立っているその女性を凝視し、壮真は目を細めた。記憶を探ろうとする。だが、思い出せない。その女性が誰なのか。なぜ美玲の隣にいるのか。考えれば考えるほど、胸の奥に小さな違和感が生まれていった。そんな壮真の袖を、玲子が軽く引っ張った。「壮真さん、私たちの席はどこかしら?」その声に現実に戻された壮真は、周囲を見回した。そうだ。まずは席を確認しなければならない。壮真は近くを通ったウェイターに声を掛けた。「神崎グローバルトレーディングの神崎だ。席を用意されていると聞いてきたんだが、君にわかるかな?」ウェイターは頷き、壮真と玲子を待たせたまま、心春と綾乃の元へ行くと、心春に何かを囁いた。心春が顔を上げる。そして、壮真と目が合った。心春の表情が一瞬だけ強張ったように見えた。しかし、すぐに小さく会釈すると、綾乃に何かを言う。壮真は、その様子を黙って見つめていた。――綾乃さんか?今日は鷹宮の当主交代パーティーだ。現当主の実の娘で、次期当主の妻の母であれば、今日は特に喜ばしい日だろう……俺だって、和真の兄だ。嬉しくないわけがない―――。壮真はそう思って綾乃の姿を見ていた。だが、
美玲の姿が見えると、会場に集まった財界人が、美玲の周りに集まってきた。その場にいた誰もが、つい先日まで「神崎美玲」と呼ばれていた女性の動向に注目していた。神崎壮真との離婚。そして、今日行われる鷹宮財閥の当主交代。どちらも財界にとっては、大きな意味を持つ出来事だった。美玲は、そんな周囲の視線を感じながらも、少しも動じる様子を見せなかった。むしろ、以前よりも表情は穏やかだった。隣を歩く雪乃も、そんな美玲の横顔を見ながら、胸の奥に複雑な思いを抱いていた。――私は、本当にここにいていいのだろうか。少し前までの自分なら、これほど多くの財界人が集まる場所に立っているだけで、足が竦んでいたはずだ。けれど、今日は違う。美玲が隣にいてくれる。それだけで、不思議と背筋を伸ばすことができた。この会場には、この財閥当主交代のニュースを聞きつけてあつまった経済紙の記者たちも、和真の許可を受けて写真を撮るなどの許可を受けて招待されていた。経済紙の記者たちは神崎壮真と鳳条美玲の離婚騒動を知ってはいたが、ゴシップ記者のように周りを囲んで顔の近くにマイクを向けて、下世話な質問をする者はいなかった。あくまでも、今日の主役は鷹宮財閥の当主交代。それを理解しているからこそ、記者たちも一定の距離を保っていた。美玲の横に立った記者が、遠慮がちに美玲に声を掛けた。「鳳条美玲さん、本日お越しになったのは、何か大きな発表があるとお聞きしたのですが、今、お話しいただくことはできないでしでしょうか?」その問いに、美玲は足を止めなかった。ただ、わずかに口元を緩める。その微笑みには、これから自分が何をするのかをすでに決めている者だけが持つ、揺るぎないものがあった。「ここであなただけに話すようなことでもないわよ。あなたも少し待てば、その内容を知ることができるわ」美玲はそう言うと、待っていた雪乃を促して、会場の中へと歩いて行ってしまった。雪乃は慌ててその後を追った。美玲の歩き方には迷いがない。その背中を見つめながら、雪乃は小さく息を吐いた。――私も、いつかこんなふうに堂々と歩けるようになるのだろうか。質問を投げかけた記者はその堂々とした後姿を見て頭をかいた。そしてカメラマンの方を向いた。「ガードが堅いな。俺たちも中に入っておとなしく待とうか」そう言って会場へ入ろうと
鷹宮財閥、当主交代パーティーの会場となったホテルの駐車場には、朝から続々と高級車が乗り付けていた。黒塗りの大型車や海外の高級車が次々と並び、車から降りてくる招待客たちも、皆それぞれに品格を漂わせている。政財界におけるこうした世代交代の場には、これまで組織を支えてきた者への賞賛と、これからを担う新たな世代を祝うため、多くの業界人が集まる。まして今回は、長年にわたって鷹宮財閥を率いてきた鷹宮正隆の退任と、神崎和真の当主就任を兼ねた特別なパーティーだった。会場には華やかさだけではなく、どこか厳粛な空気も漂っていた。その入り口では、落ち着いた色合いの着物を身に纏った綾乃と心春が、母娘で招待客の対応にあたっていた。「本日はお越しいただき、ありがとうございます」心春は笑顔で頭を下げる。何度目になるか分からない挨拶だった。それでも、一人ひとりに失礼がないように、相手の顔を見て丁寧に言葉を交わす。けれど、笑顔の裏では心臓が何度も大きく鼓動していた。――大丈夫。自分にそう言い聞かせる。今日は和真のための日でもある。そして、祖父・正隆が長年守ってきた鷹宮を次の世代へ渡す、大切な日なのだ。だからこそ、妻として恥ずかしくないようにしなければならない。そんな心春の前に、見慣れた二人の姿が現れた。叶翔と櫻羅だった。「心春ちゃん!!」その声が聞こえた瞬間、心春の張り詰めていた気持ちが、ふっと緩んだ。ずっと緊張した面持ちで挨拶を繰り返していた心春も、櫻羅の顔を見ると、ようやく顔をほころばせた。「櫻羅ちゃん、今日はありがとう………顔を見たらホッとしたよ、ちょっと疲れちゃって」心春は恥ずかしそうに笑った。その笑顔には、今まで必死に隠していた疲れが少しだけ滲んでいた。櫻羅は心春の顔を見て、心配そうに微笑む。それを聞いた叶翔は、呆れたような顔をした。「お前、まだパーティーも始まってないのに、疲れたって……ちょっと待ってろ」そう言うと、叶翔は心春の返事を待つこともなく、飲み物を取りに向かった。妹の心春が頑張っていることを知っているからこそ、放っておけないのだ。ほどなくして飲み物を取って戻ってくると、今度は心春が椅子に座っていた。そして、櫻羅が綾乃と一緒に入り口で招待客への挨拶をしている。叶翔は心春のところまで歩いていくと、飲み物を差し出した。
「ああ、そういうことね」美玲は、雪乃の質問を聞くと、ようやく納得したように頷いた。その表情には、雪乃が何を心配しているのか理解したような色が浮かんでいる。けれど、それ以上は何も言わなかった。美玲はバッグから自分のスマホを取り出す。そして、慣れた手つきで何本か電話を掛けた。電話の内容は、雪乃にはほとんど聞き取れなかった。ただ、短い言葉でいくつか指示を出していることだけは分かった。その様子を見ながら、雪乃の胸には再び不安が広がっていく。――いったい、どこへ行くの?先ほどまで二人で話していたカフェから、別の場所へ移動することになるらしい。それだけで、雪乃の心臓は落ち着かなくなった。やがて美玲は電話を終えると、雪乃の方へ体を向けて聞いた。「雪乃、食事はしなくていいの?」「え……?」突然の質問に、雪乃は目を瞬かせた。食事のことなど、すっかり頭から抜け落ちていた。美玲はそんな雪乃を見て、わずかに眉を上げる。「あなた、朝から何も食べていないでしょう?」「……はい」言われてみれば、その通りだった。けれど、今の雪乃には食事をする余裕などなかった。康太のこと。美玲の申し出。そして、これから自分がどうなるのか。頭の中がそればかりでいっぱいだった。美玲は小さく息を吐く。「なら、食べておきなさい」それだけ言うと、美玲は立ち上がった。雪乃も慌てて立ち上がる。そして――。二人はそのまま、次の場所へ向かった。* * *九条ホールディングス。雪乃はまた、エレベーターに乗せられていた。行き先は、最上階。以前、康太と一緒に訪れた場所だった。あの時は、康太と二人でエレベーターの中から見える景色を眺めていた。康太は大きな窓の向こうに広がる街並みに目を輝かせていた。「お母さん、あんなに高いところまで行くんだね」そんな康太の声を思い出す。あの時の自分は、まさかこんな形で再びこの場所へ来ることになるなど、考えもしなかった。しかも今度は――。隣にいるのは康太ではない。鳳条―――神崎美玲だった。エレベーターの静かな駆動音だけが、二人の間に流れている。雪乃は何度も自分の手を握り直した。美玲は何も言わず、ただ前を見ている。その横顔には迷いがなかった。――この人は、もう全部決めているんだ。そう思うと、雪乃の胸はまた苦しくな
「今日呼び出したのは、康太のことなんだけど―――」美玲がそう口にした瞬間だった。雪乃の胸が、大きく跳ねた。やはり、その話だった。ここへ呼び出された時から、ある程度は覚悟していた。それでも、いざ康太の名前を出されると、胸の奥に押し込めていた不安が一気に込み上げてくる。雪乃はまた椅子から飛び上がるように立ち上がり、大きく頭を下げた。「そのことについては、本当に申し訳ございません。美玲さんと結婚したことを知りながら………」自分でも何を言っているのか分からなかった。謝らなければならない。ずっと、そう思っていた。壮真と関係を持ったこと。その後、康太を産んだこと。そして、美玲という正妻がいることを知りながら、十年以上もの間、壮真から養育費を受け取っていたこと。いくら壮真が自分と康太を放っていたとはいえ、美玲にとっては許せることではないだろう。そう思った瞬間――。「黙って座りなさい、騒々しい」冷たい声が飛んできた。雪乃はびくりと肩を震わせた。反射的に顔を上げそうになったが、結局できず、そのままコソコソとイスに座り直した。膝の上で両手を固く握る。美玲は怒っている。そう思っていた。けれど――。「顔を上げなさい」今度の声は、先ほどよりも静かだった。雪乃は恐る恐る顔を上げた。そこにいた美玲は、何でもなさそうにコーヒーカップを手に取っていた。優雅な仕草でコーヒーを一口飲む。そして、静かにカップを皿へ戻した。カチャリ、と小さな音が個室に響いた。美玲は雪乃をまっすぐ見つめた。「壮真のことは、もう、どうでもいいの。私たちに子供ができなかったのだって、私も彼も、お互いを愛していなかったからなのよ。それに、あなたと壮真が付き合っていたのを、私は知っていたわ、結婚する前から」雪乃は息を呑んだ。――結婚する前から……知っていた?思いもしなかった事実だった。自分たちの関係を、美玲は知らなかったと思っていた。だからこそ、胸の奥に罪悪感を抱え続けてきた。しかし、美玲はすべてを知ったうえで壮真と結婚したのだ。美玲は椅子の背に背中を預けると、胸の前で腕を組んだ。「康太のことを聞いたときは……悔しかったわよ、女として。でも―――」その言葉だけは、少しだけ重かった。美玲にとって康太の存在を知った瞬間が、決して何でもない出来事だったわ
翌日から、心春はパーティーの準備に追われていた。招待客の名簿、会場の手配、料理、席順、挨拶の段取り――。やることは山ほどあった。鷹宮財閥の当主交代を兼ねたパーティーともなれば、招待する相手も、ただ親しい人間を選べばいいというわけではない。政財界の重鎮から、長年にわたって鷹宮と関わりのある企業の代表者、海外から訪れる関係者まで、その顔ぶれは多岐にわたる。一つの確認を間違えれば、相手に失礼をしてしまう可能性もある。資料を何度も見返し、秘書から説明を受け、綾乃にも相談する。慣れないことばかりだった。それでも心春は、終始笑顔で忙しく動き回っていた。「この席順で大丈夫かしら……」小さく呟きながら資料に目を落とす。不安はあった。むしろ、時間が経つほど、その不安は大きくなっているようにも感じた。――本当に私にできるの?これまでは、「九条玲司の娘」か、「鷹宮財閥の孫娘」という立場でいられた。周囲から期待されることはあっても、最終的な責任を負うのは父や祖父だった。けれど、これからは違う。和真が鷹宮の当主になる。そして自分は、その妻として、その隣に立つことになる。「当主夫人」という言葉を思い浮かべるだけで、胸の奥が少しだけ締めつけられた。嬉しい。和真の妻として、その隣に立てることは誇らしい。けれど、それと同時に、自分の肩にも大きなものが乗ろうとしている。――私も、しっかりしなくちゃ。そう自分に言い聞かせ、心春は再び資料へと目を戻した。その頃。鷹宮当主の交代のことは、雪乃の耳にも入っていた。そして、壮真と美玲が、あっさりと離婚届を出したことも―――。離婚するとなれば、財産分与や慰謝料請求など、解決しなければならない事柄はたくさんあるはずだった。それなのに、美玲は驚くほど淡々としていた。「そんなことは、後からどうとでもなるわ」そう言い切り、何よりも「とにかく籍を抜きたい」という美玲の意思を優先したのだ。雪乃には、その潔さが理解できなかった。二十年以上も夫婦として暮らしてきた相手と別れるというのに、迷いがない。それほどまでに、美玲の決意は固かったのだろう。そして雪乃は今、その美玲から呼び出されていた。平日の昼間。雪乃が訪れたのは、九条コーポレーションビルの近くにあるカフェだった。先日、綾乃と会った場所でもある。店







